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オーストラリアの国会で最近、女性議員が国会中に授乳をすることを認めるよう投票が行われました。母乳推進者たちはこれを勝利として喜んでいますが、実はそうではありません。パラドックスのようですが、彼らの敗北です。
なぜでしょう?専門職の女性が本当に必要としているもの(一般的な産休・育休)ではなく、より価値の低いもの(授乳)を得てしまったからです。
女性たちは何十年もプロフェッショナルとして真剣に奮闘してきました。 しかし仕事中に実際に授乳することはプロフェッショナルとしての行いではありません、
仕事場での授乳を認めらることで産休を取らなくて済むという考えは、労働者が仕事場での食事を認められることで昼休み取らなくて済むというようなものです。
私の子供たちが赤ちゃんだったとき、仕事の空き時間に夫は時々彼らに食事させるため、病院に連れてきていました。私はプライバシーが守られた勤務医用の待機部屋で彼らの面倒を看ました。私は子供たちの面倒を看るのが大好きでしたし、非常に多忙ではありましたがそれ以上にやりがいを感じました。
しかし...私は子供たちを患者の部屋に連れて行ったことはありません。彼らの面倒をみるために集中治療室にも、流産の処置をしているところに連れていくことも絶対にありません。子供たちを子宮摘出手術や帝王切開術の最中に外科手術のガウンの下で面倒を看ることもありません。それは単にプロフェッショナルじゃないからというだけでなく、(そんなことしたら確実にプロフェッショナルではありませんけども)、患者に専念していないことになるからです。
患者は私の全力を注ぐべき存在で、私が彼らに手術を施しているときも、検査をしているときも、単に世間話をしている間も、専念する必要があるのです。
もしも弁護士が裁判所で協議している最中に彼女の子供の面倒を看ていたら、愕然とするでしょう。
もしもパイロットが飛行機の操縦中や、飛行前の安全確認中に彼女が授乳していたら、愕然とするでしょう。
私は仕事中に子供に授乳しながら最大限のパフォーマンスを発揮できるプロフェッショナルというケースは、一つも思いつきません。
オーストラリアの議員が議会室にいるとき、彼らは働いています。彼らは法案を検討し、同僚と議論し、法案化に向けての検討に専念しています。おそらく彼らは人々の仕事に最大限の注意を払っていることでしょう。赤ちゃんを授乳のために議会の場に連れていくことはプロフェッショナルではありません。それは全力を傾けて問題に取り組む国会議員から仕事を奪うとともに、全力で赤ちゃんに向き合う母親を赤ちゃんから奪うことになるのです。
言うまでもなく、赤ちゃんは食べる必要があります。大人もそうです。かといって手術室や、協議中の議会、飛行機を操縦している最中のコックピットでは食事はしません。患者の診察中や、治療方法の検討中、または採用面接中に食事をしたからといって、危険ではないと言う人がいるかもしれませんが、それは相手への尊厳を欠いた行為です。
それだけでなく、職場で授乳することが仕事をする母親への寛容さではありません。何が勝利と言えるのか、それは仕事をする母親と赤ちゃんすべてに対して寛容であることです。
過去20年間の間に、家庭と仕事の境界線は曖昧になってきました。確かに、1996年のころは仕事場から家にいるあなたを電話で呼び出すことができました。しかし普通はあなたが仕事場から離れていたら、いないものとして考えられるでしょう。コンピューターや、スマートフォン、またemailが全てを変えました。仕事が人生のどの瞬間にも侵入してきました。あなたが衛星通信の電波の届かないところにいても、あなたにコンタクトすることができます。あなたの同僚はいつでもあなたの書類に目を透すことができます。あなたの上司はあなたが書類をできるだけ早く終わらせて送ってくることを期待しています。たとえそれが深夜2時だとしても。仕事は毎日限られた数時間だけのものから、家庭に侵入してきているのです。そしてそれは家族の団欒の時間を邪魔するようになりました。私の父が仕事から帰ってきた時は、私は父と母とテレビでスポーツを楽しんでいました。昨今の小さな子供たちの親は、家に帰ってきて子供たちが目の前にいても、仕事と彼らの両方に時間を割かなくてはいけないことがよくあるのです。
職場での授乳を容認することは、赤ちゃんと母親の本当に必要なもの(十分な産休・育休)に比べると粗悪な代替品です。
私の見解では、フェミニストの理想は女性は母親としても仕事のプロフェッショナルとしても価値ある存在だと認めさせたいのです。フェミニストの理想は、母性を仕事場に持ち込み、仕事のパフォーマンスと母性のどちらも妥協せよ、というのではありません。
女性に仕事場での授乳を認め、産休を取らせないようにする。これは、労働者にデスクで働きながら食事することを認めることで、昼休みを取らせないようにするのと同じことです。これでは権利を勝ち取ったとは言えず、敗北です。
言うまでもなく、赤ちゃんは食べる必要があります。大人もそうです。かといって手術室や、協議中の議会、飛行機を操縦している最中のコックピットでは食事はしません。患者の診察中や、治療方法の検討中、または採用面接中に食事をしたからといって、危険ではないと言う人がいるかもしれませんが、それは相手への尊厳を欠いた行為です。
それだけでなく、職場で授乳することが仕事をする母親への寛容さではありません。何が勝利と言えるのか、それは仕事をする母親と赤ちゃんすべてに対して寛容であることです。
過去20年間の間に、家庭と仕事の境界線は曖昧になってきました。確かに、1996年のころは仕事場から家にいるあなたを電話で呼び出すことができました。しかし普通はあなたが仕事場から離れていたら、いないものとして考えられるでしょう。コンピューターや、スマートフォン、またemailが全てを変えました。仕事が人生のどの瞬間にも侵入してきました。あなたが衛星通信の電波の届かないところにいても、あなたにコンタクトすることができます。あなたの同僚はいつでもあなたの書類に目を透すことができます。あなたの上司はあなたが書類をできるだけ早く終わらせて送ってくることを期待しています。たとえそれが深夜2時だとしても。仕事は毎日限られた数時間だけのものから、家庭に侵入してきているのです。そしてそれは家族の団欒の時間を邪魔するようになりました。私の父が仕事から帰ってきた時は、私は父と母とテレビでスポーツを楽しんでいました。昨今の小さな子供たちの親は、家に帰ってきて子供たちが目の前にいても、仕事と彼らの両方に時間を割かなくてはいけないことがよくあるのです。
職場での授乳を容認することは、赤ちゃんと母親の本当に必要なもの(十分な産休・育休)に比べると粗悪な代替品です。
私の見解では、フェミニストの理想は女性は母親としても仕事のプロフェッショナルとしても価値ある存在だと認めさせたいのです。フェミニストの理想は、母性を仕事場に持ち込み、仕事のパフォーマンスと母性のどちらも妥協せよ、というのではありません。
女性に仕事場での授乳を認め、産休を取らせないようにする。これは、労働者にデスクで働きながら食事することを認めることで、昼休みを取らせないようにするのと同じことです。これでは権利を勝ち取ったとは言えず、敗北です。
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